2015年4月24日金曜日

第2章 人格

人格の問題は西洋世界では何世紀もの間、未解決で残された問題である。登用思想は人格の分類を発達させて、人間の心理的過程に多くの光を投げかけている。しかし西洋においては、教条的神学がこの問題ん遺体する西洋思想の同様の発展を、ごく最近まで限界づけていた。

しかしながらごく最近に至って、教条的宗教の支配が及ばぬ様々な要素が一緒に働いて、これまで以上に人格の本性に関するより真実な見解を全面に押し出すに至った。旧来のアカデミックな心理学は純粋に顕在意識を扱うにすぎない。

そしてその研究方法は主に精神の精神自身に対する意識的な省察にたよっている。しかし人間の精神とは自覚されているよりもずっと大きなものである。其の可能性を指摘する多くの事実が続々吐出げし始めた。催眠療法、催眠術、テレパシー、神霊形の霊的活動などが観測され、これらすべてが、新しい心理学が必要なことを示し始めた。この心理学は現在では先行のアカデミックな心理学よりもはるかに広い基礎の上にうち建っている。

F・W・Hマイヤーズはかれの画期的な書物「人格」において、かれが「識閾下の精神」と名付けるものについて概略を素描している。かいつまでいえば
(それはいまだ妥当性をもっているが)、意識的精神は意識のある水準、つまり「閾」とか「識閾」として知られているものの上にある精神の一部にすぎないという説である。しかしながらこの閾上の、あるいは識閾の上にある意識だけが意識の唯一の領域ではない。
その閾の下に別の意識層が存在し、そのそうは識閾下の層と名付けられ、一般的に潜在意識と呼ばれている。


こうしてこの理論にしたがえば、人間の精神は二重となっており、意識的ないし顕現的な面と潜在意識すなわちその識閾の下に残るものを持っている。マイヤーズは、かれの考察した様々な現象は、すべてある条件の元にある通路を通して、潜在意識がつきあげてきて顕現的な人生に出現したと想定するとうまく説明できるということを明らかにした。

またマイヤーズは、精神のこの潜在意識的諸層はその大きさと可能性において人格の意識的層よりずっと大きいということを示した。

一般的に用いられている比喩は大海の中にその大部分を隠している氷山の比喩である。この比喩はきわめて適切な比喩である。このような氷山の行動は精神の行動と全くよく似ているからである。例えば風が羅針盤のある一点から不幸と、氷山は泰然自若(たいぜんじじゃく)として風に逆らって動くだろう。なぜなら大きな界面にもぐった氷山は表面のはるか下で海流によって動かされているからである其の点人間の精神も同じである。

この新しい着想の上に新しい心理学が打ち立てられ始めた。この分野の開拓者として二人の人物が際立っている。最初の名前はジグモント・フロイトであり、次は其の電子CGユングである。フロイトの心理学は心理的病床に性の要素を強調することにより一般の民衆になじみとなっている。この極端な見解にユンは同調できず、次第にチュリッヒ学派と呼ばれるものを形成した。

魔法の観点から言えば、疑いもなくユングの教えはフロイトの教えよりずっと真実に近いということができる。それゆえにこれから簡単に概略を述べようとするのはかれの体系のいくつかの局面である。

動物と人間双方の意識的な生の背後には、これまでいろいろの名前をつけらていたある駆動力ないしエネルギーが存在知ることがわかっている。心理学者によってそれはリビドーとして、時にはイドとして引用される。この基本的な衝動は根本的本能と名づけられるものの中に現れる。普通の分類にしたがえば、これれは数の上では3つであると言われている。すなわち「自己保存本能、あるいは生きんとする意思」、「性本能、あるいは創造せんとする意識」、「群衆本能、あるいは社会的衝動」である。

これら三者にユングは第四の本能「宗教的本能」を付け加え、それを人間だけの特権であると主張する。この本能は原始的本能の3つの生物学的駆動力の対局にあるものであり、したがって人間を構成する本質的な部分である。どんな心理学の体系が打ち立てられようと、この本質的な点を欠くならば、人格の分野を完全に覆うことはできないだろう

さて、人類の初期の発展段階ではこの三大本能が優勢を占めていたけれども、その時ですら宗教的本能は明らかに働いていた。人類が前進し始めるに連れて、だんだんと発展してきた意識的精神は数ある本能的な駆動力のうちいくつかの強さを弱め、そのエネルギーを新しい通路へと転換しはじめた。しかしこのことは不規則かつ無意識的方法で行われたのでかなりの葛藤が人間の心のなかに生じた。

キリスト教の出現と、それが古い進行の没落に対して引き起こした激しい反作用によって、この自然本能の抑圧は次第に強化されて、だんだんとキリスト教進行の一部として受け取られるに至った。そしてついにヴィクトリア朝に至ってそれは最高点に達した。意識的精神はある種の倫理的法則と結びついて人類の発展の最高の達成であると断言されたのである。

しかしこのことは主としてヨーロッパ世界の病弊であるノイローゼがだんだんと増加する結果を招いた。もちろんあらゆる民族に神経症は存在する。だが西欧文化に見いだされる数ははるかに多いのである。西欧文明の背後に投げ捨てられた強力な本能は歪曲され倒錯される。そしてその本能が意識的精神の動きへと転じる際のエネルギーが適切に方向付けられた時、すなわち「昇華された」時、それはないてきめんな精神的葛藤の中に消失する。と同時に西洋において極普通となっている欲求という感情を引き起こすのである。

この個人のダイナミックな力の制圧は精神の潜在意識適所力と意識的処力の間に厳しい分断の線を引くという結果をもたらした。しかし意識的精神の中に識閾カニ閉じ込められているダイナミックな力を導入することによってのみ、人間の様々な活動は本物のそうに達することができることはあきらかである。現代の精神的治療法の目指すところはこのような潜在意識の開放であり、またこのことこそ現代んお魔法使いの心民とするところでもある。

このことは原始的本能はその最も粗野な形で働かなければならないということを意味しない

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